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1993年生まれのゆとり世代の僕が、アニメや映画、読んだ本の感想や、社会に対する不満などを書いてます。

忘れさられた玉砕の島。「ペリリュー島の戦い」

「諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本軍人が いかに勇敢な愛国心を持って戦い そして玉砕したかを伝えられよ」 米太平洋艦隊司令長官、チェスター・ウィリアム・ニミッツ


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日本から直線距離にして南におよそ3200キロの地点に浮かぶパラオ諸島。2015年4月8日、天皇皇后両陛下はこのパラオ諸島をご訪問されます。そして9日には大東亜戦争(太平洋戦争)の激戦地でパラオの一つであるペリリュー島に慰霊のためご到着される予定です。05年のサイパン島以来、二度目の慰霊訪問です。

ペリリュー島は南北9キロ、東西3キロの小さな珊瑚礁の島です。大東亜戦争中、そんな小さな島で、中川州男大佐率いるペリリュー島守備隊は、米海兵隊との激戦の末、玉砕しました。

ではなぜそんな小さな島で激戦が繰り広げられたのか。

ペリリュー島はフィリピン東方1000キロにあり、ニューギニアから北上してきたマッカーサーはフィリピン進行にあたって、その東部のパラオを攻略しておきたく、しかも戦前から日本海軍航空基地が築かれ軍事的要衝となっていたためです。そして何より、攻略が容易だと米軍に考えられていことがあります。圧倒的戦力の差から、第一海兵師団長ウィリアム・ルパータス少将は攻略は3日間で終わると考えていました。
しかし事態はまるで違いました。米軍は上陸から1ヶ月後には、米海兵師団の約半数が損害を受け戦線から離脱し、代わった師団に対しても日本軍は抵抗を続け、組織的な戦闘は2ヶ月を超しました。
戦後、チェスター・ウィリアム・ニミッツ元帥は『太平洋海戦史』の中で、難攻不落の島として、ペリリュー島の戦いを最初に挙げています。それほど、米軍にとってペリリュー島の戦いは過酷で悲惨でした。
そこまで米軍を追い詰めたのは、中川州男大佐率いる1万6300の日本軍守備隊でした。
昭和19年9月12日。ペリリュー島を包囲した米軍の大機動部隊は、猛烈な艦砲射撃と空爆を開始します。米軍が打ち込んだ砲弾は1日に5万7600発撃ち込み、3日間で17万発を超えました。
そして9月15日、米海兵師団の第一波が上陸を開始します。日本軍守備隊は敵を至近距離に引きつけ、一斉射撃を開始します。この急襲に上陸部隊は大混乱を起こします。
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(日本軍の一斉射撃で海岸線に釘付けされる米海兵隊)  

しかし日本軍守備隊は飛行場の多くを占領され、島の険しい高地を利用して持久戦に切り替えます。 
米軍は洞窟に立て篭もる日本軍の作戦に恐怖に駆られ、5日間で1700名の死傷者を出しました。3日で攻略すると豪語したルパータス少将は責任を感じ、心臓を患います。   
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(日本軍の抵抗によって負傷した海兵隊員) 

苦戦に陥っていた米軍は性急な攻撃をやめ、火炎放射器等で日本軍陣地を一つずつ虱潰しにしていき、日本軍はじりじりと後退。 
11月中旬以降、日本軍の戦闘人員は300人程となり、弾薬も食糧も、飲水さえも尽きてしまいます。それでも中川大佐はバンザイ突撃を最後まで許しませんでした。 
11月24日、中川大佐はもはや陣地保持は困難と判断。玉砕の電文、「サクラ、サクラ」がパラオに送られ、日本軍の組織的抵抗は終わりました。 
しかし中川大佐は組織的抵抗が終わったあとも「飽く迄持久に徹し米奴撃滅に邁進せむ」ことを残る将兵に指示し、自決しました。 
中川大佐の命令は戦後まで守られ、残された34人はゲリラ戦を展開し続けました。 
 
このように、3日で落ちると敵に言われていた島を、2ヶ月も日本軍守備隊は守り抜きました。 
これほどの激戦地にも関わらず、サイパン島などのマリアナ諸島の玉砕や、沖縄戦ほどの知名度はありません。忘れられた玉砕の島です。 

そんな玉砕の島に、天皇皇后両陛下はご訪問します。 
ペリリュー島に散った帝国陸海軍の将兵たちも、これでようやく安らかに眠れるのではないでしょうか。

僕も死ぬまでには一度、ペリリュー島を訪れたいと思っています。
 
今回の両陛下のご訪問をきっかけに、多くの人にペリリュー島の戦いを知ってもらえたらと思います。